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小田氏 小田城 (2018/8/19 21:17:32)
筑波山からの帰り道、前から気になっていた中世鎌倉時代から戦国の世終結迄、名門なれど、小国ゆえ、上杉、佐竹、真壁、北条、結城など隣国から攻められ、負け戦を何度も強いられた、小田氏の居城、小田城(国指定史跡)に寄って来た。
位置関係は、筑波山の南側、平城である。
詳しくは歴史書を読んで欲しい。
まず、行って驚いたのは、小田城周辺の集落は、歴史を感じる武家屋敷風な街並みが残る場所であった。
いつも通り過ぎてばかりの道を、ちょっと入った処に小田城跡は有った。
土塁に曲輪、堀が残り、鉄砲が伝来する前の時代からの城である事から、史跡としての範囲は南北550m、東西450mだが、城内本丸の有る土塁で囲まれた場所は200m x 200m位の感じか?
鉄砲伝来後の戦国時代の城とは異なり、堀を巡らせて、馬や人が簡単には攻めてこられ無い曲輪が多く作られたお城であり、こじんまりした感じは有った。
1180年代、源頼朝の時代、常陸国守護職に任じられて以降、鎌倉幕府が滅亡する少し前に、小田氏は守護職を失い、以降乱世を幾度と無く戦い、城が取られたら取り返し、また取られると言った争いを繰り返して来た。
小田氏と言うと、私的には小田氏治が記憶に残る。
実は私が住むエリアは、この小田氏と北条氏の丁度勢力圏の境目になり、歴史的には、凄く不安定な土地だったのではないか?と、歴史書を読むと感じられる。
小さいながらも、歴史を感じる城跡で有りました。
この小田城、実はすぐ近くに有る、筑波山系の山に登れば、城の内側が丸見えなのだ。
小田城のすぐ近くには、宝筐山(ほうきょうさん)と言う山が有るのだが、なかなか「宝筐」と言う字を読める人はいないのでは無いか?
宝筐山には、鎌倉時代に遡れる石造りの印塔が有るそうだ。
今、小田城跡は、りんりんロードと言う、かつては電車が通っていた線路跡をサイクリングロードとして整備した道の途中に有り、休憩所としての案内所もあり、気軽に寄れる場所にもなっていた。
位置関係は、筑波山の南側、平城である。
詳しくは歴史書を読んで欲しい。
まず、行って驚いたのは、小田城周辺の集落は、歴史を感じる武家屋敷風な街並みが残る場所であった。
いつも通り過ぎてばかりの道を、ちょっと入った処に小田城跡は有った。
土塁に曲輪、堀が残り、鉄砲が伝来する前の時代からの城である事から、史跡としての範囲は南北550m、東西450mだが、城内本丸の有る土塁で囲まれた場所は200m x 200m位の感じか?
鉄砲伝来後の戦国時代の城とは異なり、堀を巡らせて、馬や人が簡単には攻めてこられ無い曲輪が多く作られたお城であり、こじんまりした感じは有った。
1180年代、源頼朝の時代、常陸国守護職に任じられて以降、鎌倉幕府が滅亡する少し前に、小田氏は守護職を失い、以降乱世を幾度と無く戦い、城が取られたら取り返し、また取られると言った争いを繰り返して来た。
小田氏と言うと、私的には小田氏治が記憶に残る。
実は私が住むエリアは、この小田氏と北条氏の丁度勢力圏の境目になり、歴史的には、凄く不安定な土地だったのではないか?と、歴史書を読むと感じられる。
小さいながらも、歴史を感じる城跡で有りました。
この小田城、実はすぐ近くに有る、筑波山系の山に登れば、城の内側が丸見えなのだ。
小田城のすぐ近くには、宝筐山(ほうきょうさん)と言う山が有るのだが、なかなか「宝筐」と言う字を読める人はいないのでは無いか?
宝筐山には、鎌倉時代に遡れる石造りの印塔が有るそうだ。
今、小田城跡は、りんりんロードと言う、かつては電車が通っていた線路跡をサイクリングロードとして整備した道の途中に有り、休憩所としての案内所もあり、気軽に寄れる場所にもなっていた。
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