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被爆から70年…カープは復興の象徴 。 (2015/8/6 14:00:08)
1945年8月6日午前8時15分、広島市中心部に原爆が投下された。あれからちょうど70年がたった。5年後の50年に誕生した広島カープ(現広島東洋カープ)は復興の象徴とされ、広島の人々に勇気と希望を与えてきた。カープ初年度のメンバーである長谷部稔広島カープOB会名誉会長(83)が、苦難のカープ創設期を中心に戦後70年を語った。
閃光(せんこう)が走った。広島市中心部から直線にして10キロたらずの安芸郡矢野町(現広島市安芸区)の自宅にいた長谷部さんは「今でもはっきり覚えている。当時は原子力爆弾なんて知らないし、何の光なのか分からなかった」と、自宅を飛び出し、近くの土手に駆け上がった。爆風を受け、体をよろめかせながら走った。すると広島市中心部に巨大なキノコ雲がわき上がっているのが見えた。
旧制中学の広島工業学校2年の夏だった。原爆が投下された後、広島方面から軍用トラックが、被爆でやけどした人々を近くの小学校や寺へ運んでくる。「肉なんかも見えました」と悲惨な光景を忘れることはできない。
焼け野原となった広島市中心部。終戦を迎え、復興へ努力する人々がいる一方、広島駅周辺に闇市ができ、風紀が乱れた。同世代の学生がたばこをくわえ、たむろしている。「このままではだめになる」と上級生や仲間たちと野球をはじめた。学制改革で皆実高となり49年、3年の夏には4番捕手として西中国大会に出場。山口代表の柳井高に敗れ、甲子園出場はかなわなかったが、大型の強肩捕手としてチームを支えた。
広島は、戦前から野球王国といわれた。被爆から5年後に復興の旗印としてプロ野球チーム「広島カープ」が誕生した。高校卒業前に入団テストに参加し、石本秀一監督に強肩が認められ「今すぐ契約書にはんこを押せ」と、4時間説得され入団した。こうして球団創設1年目のメンバーに名を連ねた。
他球団からの選手や新人を集めたチームは勝てない。当時は入場料収入を勝ちチームに七分、負けチームに三分で分配されていたことも市民球団の資金難に拍車をかけた。51年春には解散寸前まで追い込まれたほどだった。「給料をまともにもらえなかった。球団に金が入った時には、まずは妻帯者から。独身だった私なんかは、『がまんせいよ』と言われて1000円ずつもらっていた」と振り返った。
資金難のチームに県民からの寄付が送られた。警察官による募金が石本監督に届けられたのをきっかけに、支援の輪が広がり、本拠地の広島総合グラウンド入り口に寄付を募る四斗だるが置かれたのは有名な話。練習後に街頭で鉛筆売りをしたこともあったという。
加えて石本監督をはじめ選手は、県内各地で後援会発足のお願いをして回った。「矢野の出身ということもあり、呉なんかの劇場を回った。3、4人で行ってベテランや主力の人は野球の話をして、私は3番手捕手で試合にもあまり出ていなかったので、歌を歌ったりして協力を求めた。炭坑節なんかも歌った」と、“男芸者”として資金を調達した。
給料遅配にも「広島の人は苦しいのに募金とかで協力してくれた。野球で元気づけて復興しようと考えていた」と、野球に打ち込んだ。そんな時に朗報が届いた。62年に東洋工業(現マツダ)社長の松田恒次氏が球団社長に就任。「金は出しても口は出さんというのが松田恒次さん。あの人は立派じゃったな。あれから給料の遅配はなかった」と、3年目から資金難は解消された。
現役生活は7年で終わった。引退後は東洋工業に就職。元カープ選手が増えるにつれ、いつのまにか酒席が「ポンコツ会」となった。「わしも寄してくれと来て大きくなった。それでOB会にしようということになった」と、73年には元監督の門前真佐人氏が会長を務める「広島カープOB会」が誕生した。
2代目会長に長谷川良平氏が就任すると、現役時代にバッテリーを組んでいたこともあり副会長に就いた。選手時代、県内各地を回ったことを思い出し、OB会で野球チームをつくり地域との交流を図ることを提案。2007年には長谷川氏の跡を継いで3代目会長となった。
75年の初優勝をはじめ6度のリーグ優勝をOBとして見守ってきた。13年12月に会長を安仁屋宗八氏(デイリースポーツ評論家)に譲り、名誉会長となった。今は、ただ一人のカープ創設期メンバーとして苦労した時代のことを次世代に伝えている。
資金難のチームからファンに愛され、隆盛を極めるカープ。「何もないとこから県民にお世話になってきたチームですから、ただよくなったっていうことは許されない。今のオーナーはいろんなことにチャレンジして、球場も満員になっている。OBとして感謝している。成績もこれから上がっていけばいい」。被爆から70年。広島の町の復興とカープとともに生きてきた長谷部さんの言葉には重みがある。
デイリーからの転記。
閃光(せんこう)が走った。広島市中心部から直線にして10キロたらずの安芸郡矢野町(現広島市安芸区)の自宅にいた長谷部さんは「今でもはっきり覚えている。当時は原子力爆弾なんて知らないし、何の光なのか分からなかった」と、自宅を飛び出し、近くの土手に駆け上がった。爆風を受け、体をよろめかせながら走った。すると広島市中心部に巨大なキノコ雲がわき上がっているのが見えた。
旧制中学の広島工業学校2年の夏だった。原爆が投下された後、広島方面から軍用トラックが、被爆でやけどした人々を近くの小学校や寺へ運んでくる。「肉なんかも見えました」と悲惨な光景を忘れることはできない。
焼け野原となった広島市中心部。終戦を迎え、復興へ努力する人々がいる一方、広島駅周辺に闇市ができ、風紀が乱れた。同世代の学生がたばこをくわえ、たむろしている。「このままではだめになる」と上級生や仲間たちと野球をはじめた。学制改革で皆実高となり49年、3年の夏には4番捕手として西中国大会に出場。山口代表の柳井高に敗れ、甲子園出場はかなわなかったが、大型の強肩捕手としてチームを支えた。
広島は、戦前から野球王国といわれた。被爆から5年後に復興の旗印としてプロ野球チーム「広島カープ」が誕生した。高校卒業前に入団テストに参加し、石本秀一監督に強肩が認められ「今すぐ契約書にはんこを押せ」と、4時間説得され入団した。こうして球団創設1年目のメンバーに名を連ねた。
他球団からの選手や新人を集めたチームは勝てない。当時は入場料収入を勝ちチームに七分、負けチームに三分で分配されていたことも市民球団の資金難に拍車をかけた。51年春には解散寸前まで追い込まれたほどだった。「給料をまともにもらえなかった。球団に金が入った時には、まずは妻帯者から。独身だった私なんかは、『がまんせいよ』と言われて1000円ずつもらっていた」と振り返った。
資金難のチームに県民からの寄付が送られた。警察官による募金が石本監督に届けられたのをきっかけに、支援の輪が広がり、本拠地の広島総合グラウンド入り口に寄付を募る四斗だるが置かれたのは有名な話。練習後に街頭で鉛筆売りをしたこともあったという。
加えて石本監督をはじめ選手は、県内各地で後援会発足のお願いをして回った。「矢野の出身ということもあり、呉なんかの劇場を回った。3、4人で行ってベテランや主力の人は野球の話をして、私は3番手捕手で試合にもあまり出ていなかったので、歌を歌ったりして協力を求めた。炭坑節なんかも歌った」と、“男芸者”として資金を調達した。
給料遅配にも「広島の人は苦しいのに募金とかで協力してくれた。野球で元気づけて復興しようと考えていた」と、野球に打ち込んだ。そんな時に朗報が届いた。62年に東洋工業(現マツダ)社長の松田恒次氏が球団社長に就任。「金は出しても口は出さんというのが松田恒次さん。あの人は立派じゃったな。あれから給料の遅配はなかった」と、3年目から資金難は解消された。
現役生活は7年で終わった。引退後は東洋工業に就職。元カープ選手が増えるにつれ、いつのまにか酒席が「ポンコツ会」となった。「わしも寄してくれと来て大きくなった。それでOB会にしようということになった」と、73年には元監督の門前真佐人氏が会長を務める「広島カープOB会」が誕生した。
2代目会長に長谷川良平氏が就任すると、現役時代にバッテリーを組んでいたこともあり副会長に就いた。選手時代、県内各地を回ったことを思い出し、OB会で野球チームをつくり地域との交流を図ることを提案。2007年には長谷川氏の跡を継いで3代目会長となった。
75年の初優勝をはじめ6度のリーグ優勝をOBとして見守ってきた。13年12月に会長を安仁屋宗八氏(デイリースポーツ評論家)に譲り、名誉会長となった。今は、ただ一人のカープ創設期メンバーとして苦労した時代のことを次世代に伝えている。
資金難のチームからファンに愛され、隆盛を極めるカープ。「何もないとこから県民にお世話になってきたチームですから、ただよくなったっていうことは許されない。今のオーナーはいろんなことにチャレンジして、球場も満員になっている。OBとして感謝している。成績もこれから上がっていけばいい」。被爆から70年。広島の町の復興とカープとともに生きてきた長谷部さんの言葉には重みがある。
デイリーからの転記。
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